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ヨガとは自分を許すこと: 子供のいやいや期の母親の自信喪失と

子育ても3年めに入り、第一児反抗期に翻弄されながら、私はますます人間の「エゴ」というものに興味を持った。未熟な私に突きつけられた現実は、恐ろしいほどの自分の弱さと、その弱さを隠すために自分が選ぶ愚かな戦略、つまり怒りを爆発させ、責めることでした。ヨガの先生でありながら、私は母親としてガチガチに「硬い」のでした。優しいお母さんになりたいと思えば思うほど、私の中の硬い部分が露出してくるのは皮肉なことでした。子供を叱り、主人を非難し、最後は自分の神経過敏さを言い訳し、詫びる、の繰り返し。不規則な主人の生活は私が責める素材としてはうってつけでした。怒り、泣き、子を叱る私に主人は言い放ちました。
「どっかに消えて。誰も朋子のことは助けないから」
息子のオルゴールを抱きしめ、布団にくるまって一人で泣いた。「私は一人なんだ、誰も私のことは助けないんだ、私が助けてもらえる人にならない限り、私は誰からも見捨てられる」助けて、と言えたらいいのに、と思った。

ヨガの練習とは人は一人で生きられないことを知ることなのだろう。謙虚になること。自信を取り戻すこと。それがリラックスであり、リニューであるのかと。完璧を求めようという姿勢には決してリラックスはやってこない。完璧でなくていいんだよ、と自分に言えるか。自分を許してあげられるか。セルフインプルーブメント(向上心)を手放し、セルフコンパッション(慈悲)を持てるか。

子供を叱ってしか育てられない自分に自信を失っていた。叱っちゃいけないと思うほど自分を許せなかった。家事を完璧にこなすことをやめ、主人に愛情ではなくあきらめの視線を注ぐようになったら少し楽になったが、まだ満たされていませんでした。優しいお母さんになりたいという勝手な幻想に当てはまっていない自分。息子の人権はまるで無視。逆らったら問答無用で叱りつける。自分の感情が最優先だ。そんなやり方では子供は怯え、反抗する。

息子は叱らないお父さんになつき、それがますます私を孤独にする。私の方が一緒にいる時間が長いのに。私はあなたのことが好きであなたに嫌われるととても悲しい、という気持ちがうまく伝わらない。息子だって人間だ。自分を尊重してくれない人を誰が好きになるだろう。自分を尊重し抱きしめてくれる人が好きに決まっている。

2013年、自分の弱さに泣いてばかりの一年だった。育児のために体を鍛えようとトライアスロンを始めたものの、体を鍛えたところで弱い心の化けの皮はすぐに剥がれる。それがますます嫌だった。心を鍛えていくにはどうしたらいいのか。そんな初心に返った一年。子供の頃から私に一番欠けていたもの。他人への配慮。やさしさ。一人っ子だから、習ってこなかったから。という自分への言い訳。だけど子供を生んで、いよいよそれでは立ちいかなくなってきている。そのことを可愛い息子が教えてくれた。優しい主人が支えてくれる。

どんな家庭でもそうだろうが、子供の頃から「結果主義」を求められた。結果が出ないとだめだった割に、父は私に旅行の間に景色を楽しむ大切さを毎回説いた。そのバランスが当時の私には理解できなかったのだ。父は父なりに私にバランスを教えてくれようとしていたのだろう。
欠けているものが当然のことながら人生を行き詰まらせる。何かとの出会いは、何かを補うためなのだ。きっと意味がある。

揺れ動く心の中で、私がこの子を守っていかなくてはいけないんだと思った。思春期の少女のように自分のエゴに揺れ動く気まぐれな育児ではなく。自分のエゴを知り、子供のエゴを理解しよう。
とはいえ、私は大人になりきれていない大人だった。薄っぺらい正義を振りかざしているだけ。「他人を裁くときは、自分の悪に想いを馳せる。それが大人の流儀だ」という誰かの言葉が心に引っかかった。

私は右手の薬指の指輪を外した。内側にLOVEと彫られた指輪。ずっとこの指輪があることで、私は慕われるはずだ、慕われるべきだ、と思おうとしていた。だから自分が主人や息子から一番ちやほやされていないと許せなかった。愛することを知ったときから、その愛を失うことが怖くなっていたのだ。その指輪をヨガマットバックにくくりつけた。もうこれがなくても大丈夫。指輪ではなく、ヨガが私を支えてくれる。

ある日の日記に書いてある。「ヨガを何に役立てるのか」
ヨガで私の人生の何を豊かにするのか。いや、貧しさから抜け出すのか、なのかもしれない。ヨガの先生にもいわれた。「あなたはそんなに恵まれているのに何が不安なの?」「さみしさが怖いんです。」私はきっと、嫌われるのが怖いから「ここまでしても私のことを嫌わない?」と試すことによって、愛情を確認しようとしていたのかもしれません。愛することは愛されたいこと。全て裏返し、というのはまさしくヨガの教えだ。

優しいお母さんとは愛せるお母さんのことなのだろう。だけど、敗者として思うこと。今の時代に育ったお母さんは、私が特にそうなのかもしれませんが、忍耐が足らず、自分が愛されることを優先したい未熟なお母さんが少なくないのではないか。だから、第一児反抗期、つまり初めて直面する子供の自我が芽生えた「いやいや期」にこどもたちのエゴによって「否定形」で接せられると、とたんにバリバリの(航一流の表現ですが)自己防衛スイッチが発動してしまう。愛されたいが故に「否定」ヨガでいうところの暴力に敏感になる。孤独と向き合ってきていないから、過度に孤独を怖れている。ヨガの練習は楽しいし気持ちがいい。先生も仲間もいる。リストラティブヨガも気持ちがいい。わいわいやっていれば孤独を忘れる。だけど、ヨガはつきつめていけばいくほど自分を孤独と向き合わせることを痛感すればするほど、気持ちよいはずのリストラティブヨガが、一時期怖くてできなくなりました。一人で宇宙旅行に行くのは誰だって怖いのです。でも、それでも勇気を出して宇宙旅行に一人で出かけ、自分と対話する時間だけを持て余すことで見えてくるもの。きっとあるのだと思います。(2013年の手記)


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