メディカルヨガコラム
メディカルヨガHOME > コラムトップ > ヨガの素敵なお話 > ヨガと仏教、御会式と日蓮上人

コラム記事カテゴリー

症例別ヨガの処方箋

ヨガ×スポーツ

ヨガが役立つ未来

ヨガの素敵なお話

ヨガはやさしいリハビリ

リストラティブヨガ

オンライン講座 好きな時に学べるヨガセラピー

メディカルヨガ公式サイト

ヨガの素敵なお話

ヨガと仏教、御会式と日蓮上人

毎年10月の3日間、いつもは静かな住宅街である雑司ヶ谷はものすごい人出で賑わいます。御会式は、日蓮上人の供養行列。とてもきれいな万灯と纏が夜空に舞う、活気のあるお祭りです。纏を振る若い子たちが異様にかっこいいのです。

ヨガはインドで生まれ、瞑想や呼吸法、座法などによって心身を鍛える事で、心の動きを抑制する方法として古くから用いられていました。その後、ヨーガ学派という哲学集団によって、解脱への実践方法として体系化されていったといわれています。そして、仏教においてもこのヨガは悟りへの実践方法として用いられ、釈尊も、瞑想によって真理を悟ったと言われますし、「瑜伽(ゆが)行」という修行法として確立されました。以前台湾に行ったとき、ヨガは中国語で「瑜伽(ゆが)」と書くのだということを知りました。

もう一つ、せっかく近所でのお祭りなので、御会式で供養される日蓮上人について調べてみました。(本コラムは2008年、雑司ヶ谷に住んでいた頃に書いたものです)

ただ、日蓮上人や日蓮宗とヨガとの関係性についてはわかりません。鎌倉仏教、高校時代、日本史で習ったはずなのに、記憶は全てフォーマットされている・・だけに新鮮です。

自力本願を主張した日蓮

日蓮上人は1222年から1282年まで(鎌倉時代)60年間生きました。お生まれは千葉県の小湊とのこと。彼は、仏教に様々な流派があり、様々な教えが並立していることを疑問に思い、各地で学ぶうちに「法華経」こそが最高の真理である、という確信を持ったそうです。それから、鎌倉で「辻説法」を行ないながら、次第に弟子や信者を増やしていきました。法華経を絶対の教えとする日蓮の立場は排他的で、他の宗派や幕府を激しく批判したそうです。このため、人々の反感を買い、伊豆や佐渡に流されたり、死罰になりそうになったこともあったそうです。しかし、迫害に負けじと、天下国家のために正しい教えを広める他はない、と解き続けたそうです。

具体的には、日蓮上人が「南無阿弥陀仏」をやめて「南無妙法蓮華経」という題目を唱えなさいとおっしゃったそうです。なぜ「南無阿弥陀仏」ではだめといったかというと、「阿弥陀仏」という仏は人格的な存在であり、「南無阿弥陀仏」とは他人に頼るという他力本願だからだというのです。キリスト教も再臨のイエス・キリストを待ち望むという点で、他力本願の教えと言われているそうです。 
日蓮上人が「南無妙法蓮華経」と唱えるようにしたのは「妙法蓮華経」とは宇宙根本法則(原則)であり、人格的な仏や神とは違い、宇宙や真理と自分自身が一体になる自力本願な意味合いがあったからだそうです。
なお、興味深いのは、日蓮上人の像には特徴があり、みな、目を大きく見開いている、いわば目力があるそうです。

煩悩のある人間が煩悩を抱えたまま悟りを開く

日蓮さんと言うお名前は、太陽と蓮華の融合なそうです。蓮の花は、根を泥の中に下ろしながら清らかな花を咲かせます。そのため、蓮華は「煩悩即菩提」という、大乗仏教の思想を象徴する花として尊重されます。日蓮さんが真理とあがめた教典である「法華経」は、まさにこの蓮華を題名とする教典です。「煩悩即菩提」とは、私たち人間が煩悩を持ったありのままの姿を以て、悟りを開くという意味だそうです。
命ある限り、煩悩を全て消滅させることは不可能です。しかし、限りなく悪因を「緩和」する努力を続けていくことで、菩薩界の命に近づいていくことができると信じられていたのです。

煩悩と菩提は、上と下、光と影、陰と陽、左右などと同じように対極にあるものです。表裏一体という言葉がありますが、物事全ては対極同士のバランスで成り立っています。対極でありながらも瞬時に互いを行き来し、変化しているという意味で、常に一体であるとも言えます。人間の存在は、煩悩でありながら、実は菩提でもある。日蓮は、この「煩悩即菩提」の教典を太陽のように激しく布教していった情熱的な仏教者だったのです。

苦しみから逃れたいのは万国共通

私は仏教徒ではありませんが、ヨガをやっていながらも人間は煩悩から一生逃れられないんだなーと思うことが多々あります。また、ヨガスートラに書いてある教えで「心の働きをコントロールできるようになると、苦しみから逃れられる、そのために修行が必要だ」ということも何となくそうなんだ、と思います。もしかしたら法華経にかいてあることと(読んだことはありませんが)あらゆるものは表裏一体だ、ということも含め、共通点がありそうな気がします。

排他的なのはどうも・・

宗教というのは各人が信じるものなので、自分の考えを人に押し付けて、他のものは偽物だ!という立場には賛同しかねますが、やはりいいものを人にひろめたい、となるとそういう強硬な手段をとらざるを得ず、だからこそ宗教が宗教と呼ばれるのかもしれません。自分の信じるグループに属したい帰属への欲求と、グループが存在する以上、グループの外、という概念も存在するわけですから、排他するというのはある意味とても宗教らしい行動なのかも知れません。
でも私個人は「来るもの拒まず、去る者追わず」がしっくりきます。

現代のYogaも宗教ではありません。現代人の心と身体の健康に役立つ、安全なヨガを学べる学び舎、それだけです。伝統的なヨガもヨガですし(あたりまえですが)、そもそもいろんな人がいろんなやり方でヨガを学び、楽しみ、受け継ぎ、普及しているのだから、どれも偽りなくヨガだと思います。その人にとってはその方が信じて取り組んでいるヨガこそが本当のヨガなのですから、人がやっているのを否定する必要はないと思うのです。むしろ、自分はこれが好きだからやっている、でいいのではないでしょうか。

でも、昔は今のように価値観や情報を共有したり比較したりできなかった、私はこれが好き、とか私の価値観はこう、とか現代人ほど断言できなかった、だから何か信じるものが必要だったのかな。とも思います。今は今で、情報が氾濫しすぎていて、何を信じていいかわからない時代とも言えますが。。

私の好きな「ナマステ」の訳は「I am special , you are special (私はたった一人のかけがえのない存在です。あなたも、たった一人の、かけがえのない存在です)」というものです。

真理を追究することにみんな悩み、苦しみ、さまようのはいつの時代も同じなのかもしれません。近所のお祭りをきっかけに、普段は考えないことを考える時間、知る時間が取れました。日蓮上人に感謝☆ さあ、お祭りを楽しみましょう。

(下記写真は、2014年の御会式での息子です)
写真


ページのトップ