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生命科学(エピジェネティクス)とヨガ

ヨガをしたことがある人なら、ヨガのよさは何となく感じられていることと思います。
でも、もし本当に心と身体にいいという理由でヨガの普及、ヨガのよさへの理解を願うのであれば、私たちはヨガを好きな人たちにではなく、ヨガをまったく知らない人が納得できる説明に努めなくてはならないと思います。
まだまだヨガに関する情報は、ヨガを好きな人、知っている人の間では共有されているものの、そうでない人たちからみたら、マニアックな好事家の趣味の域を超えていない感じがします。

ビジネススクール時代、会計とはアカウンティング、つまり「説明責任」のことだということをたたきこまれました。そして、今はすっかり忘れてしまいましたが、会計の言語はビジネス社会を生きる上で、英語と同じぐらい大切な語学なのだということを自分の子供にもちゃんと学ばせたいと思ったものでした。

ヨガを医療の現場に紹介しようとするとき、ヨガのもつ可能性について説明しようとしても、どうしても概念的、抽象的で終始してしまいます。
現代西洋医学の土壌で、ヨガを科学的に説明することはそもそも土俵が違うことでしょう。
経済学の分野でも、お金に換算できない価値が認められているように、医学や科学の分野でも、説明はつかないけれど確かに存在するスピリチュアルな概念があります。しかし、これはともすれば胡散臭いと思われてしまうことも少なくないようです。

メディカルヨガの普及に取り組むものとして精一杯の説明を試みようと、ヨガは健康問題に貢献できるのだという根拠について、生命科学への理解をもとに、私なりにまとめてみました。

【肉体づくりは重力への挑戦】

ヨガにはいろいろあります。いろいろあるというのは、流派のことだけでなく、手法のことも含めてです。例えば、呼吸法、瞑想法、日々の行い、そしてこれが一番巷でのヨガのイメージかもしれませんが、からだを動かすポーズ。

ポーズについての私なりの解釈は、重力のある地球と、自分とのレイアウトを変化させると、私たちの身体の環境はどう変化するのか、という壮大な実験なのではないか、ということです。

私たちが身体を鍛えるというとき、そのほとんどが重力にあがなう取り組みです。私たちの身体は重力に引っ張られるように暮らしているため、最終的にはその影響を受けて疲労が蓄積したり、歪んだりするようになっています。その力に負けないようにするために、子供ははいはいから立ち上がってから日々筋力を増大させていきますし、私たちはより快適に暮らせるように、スポーツジムなどで身体を鍛え、年を重ねて寝たきりにならないように、筋力低下を防ごうとしています。しかもその筋力というのは静的に鍛えられるものではなく、私たちの生活の動きの中で、私たちがその動きを快適にできるよう、無意識に、そして動的に鍛えられていくものです。例えば、高いところにあるものを取る。トイレでしゃがんで立ち上がる。こんな簡単な動作も、私たちの身体に、重力に負けないだけの骨格筋が十分に発達しているから、何も考えずにできることなのです。

【人間の体の不調をいかに防ぎ回復させるか】

長い歴史の中伝えられてきたヨガのポーズは深い人間観察に基づいているように思います。人は野放しでいると、どういう不調が現れてくるのか。S字カーブ構造を持った背骨を持つ私たちは、睡眠中に背骨への負担をいったん解放し、また明け方には元気に活動を始めることができます。どうしても、夕方には背骨の下の方、つまり腰のあたりには負担がたまり、前屈みで猫背の姿勢になっていく。そうなると、呼吸も浅くなり、気持ちも後ろ向きになっていきます。それを防ぐためには、つまりそのような「苦しみ」から解放されるためには、つとめて身体のS字カーブが保てるような筋肉の衰えを防ぎ、呼吸が浅く短くならないような習慣を身につけるのが得策である。
それは古代のインドでは、戦場に赴く兵士たちの予防医学、さらには回復医学として活用されたのでした。

一見ヨガのポーズはアクロバティックで、非日常的なものが多いように感じられますが、それはアクセサリーマッスルと呼ばれる、普段アクセサリー、つまりただの飾り物になってしまっている筋肉をしっかり呼び覚まし、体全体の調和に参加させることによって、動きのいいからだを作っていくためでもあります。アクロバティックなポーズそのものが目的なわけではありません。あくまでもポーズは私たちが幸せに暮らすための手段なのです。それを取り違えてしまうと、ヨガのポーズは上手にとれているけど、なにか心が満たされない、という本末転倒なことが起こってしまうわけです。

【地球と身体のレイアウト(関係性)を変えてみる】

レイアウトに話を戻しますが、つまりヨガのポーズは、私たちの身体のレイアウト(関係性)をこのように変化させると、私たちの身体はどういう環境変化(エピジェネティック)と受け取るのか、ということになるかと思います。たとえば、手を身体の後ろで組んで、胸を張ってみる。それだけで、胸郭は少し広がり、鎖骨も開きます。そうでないときに比べ、身体に多くの酸素が入ってくることでしょう。部屋の模様替えをすると私たちの気分が大きく変わることは皆さんよく経験されていることと思いますが、同じように身体の模様替えをすると、私たちの内臓機能や気分も変わるかもしれない、これは現代の学問では「ソマティックサイコロジー(身体心理学)」と呼ばれ注目を集めています。ポーズに焦点を当てれば、ヨガはまさにソマティックサイコロジーを活用した心の健康法として説明することができます。

また、ヨガはよく「絆」とか「結び」などと訳されますが「関係性」という説明も当てはまるのではないかと思っています。つまり、一方だけで存在しない。双方の関係があって物事は成り立っている、一局面だけの見方は危険だ、ということです。そしてこの「関係性」は固定されたものではなく、生きていく中で日々、変化していきます。変化していく関係性を整えていく、関係性の中でよりよい状態をさぐっていくこと(環境変化)そういう姿勢のこともヨガ的と言えるのではないでしょうか。

【測定されないパワーやエネルギー】

しかし、ヨガのイメージを怪しくしているものに、エネルギーという概念があります。ヨガを始めたらエネルギーがわいてきた、とか体の中にあるエネルギーポイント(チャクラ)が活性化した、とか、あの人のエネルギーをもらった、とか。こうなってくると、医学界の人たちに拒否反応を示されて当然でしょう。現代西洋医学でエネルギーと言われても、それは学問の範疇ではなく、あくまで心象的(スピリチュアル)な現象でしかないからです。世界に数多く存在するパワースポットでさえ、まだその科学的根拠については明らかにされていないものがほとんどです。なんだか良くわからないけど「とにかく」「確かに」パワーを感じるの、と言われても、信じる人は信じるでしょうし、信じない人は決して信じないでしょう。しかし、ヨガを語るとき、このパワーやエネルギーという言葉はいつもついてまわります。ヨガだけではないかもしれません。レイキや中医学なども、独自のエネルギー回路の概念を体内に描き出していますが、それは現代西洋医学の言語では決して説明ができないのです。ですからすべて「伝統的代替医療」というカテゴリーにまとめられてしまうわけです。

【やっぱりヨガは神秘的】

なぜヨガもこれほどまでにスピリチュアルなバックグラウンドを有しているのか。それは、ヨガの歴史がヒンドゥー教や仏教と深く結びついているからです。伊藤武先生(http://itotakeshi.blog33.fc2.com)のご著書が大変参考になりますが、ヨガを語るには、インドの古い神々への信仰は決して無視できません。しかしこれまで世界中に普及してきたヨガはポーズや呼吸法などその身体的側面に多くの光があてられ、宗教的、哲学的な側面は一部の好事家たちの関心ごとのままです。実際私もヨガを始めた頃はヨガの持つミステリアスな雰囲気がとても苦手で、それらを一切排除したアメリカンスタイルのヨガに心酔したものでした。しかし、アメリカでヨガを学びながら、ヨガが健康な人だけでなく、心や体に問題を抱える人々への療法のひとつとして存在感のある選択肢であることを目の当たりにしたころから、当時の人々にとってヨガはどういう意味で癒しだったのか、ということに興味を持ち始めました。そしてヨガとアーユルヴェーダ(インド医学)さらにはカラリパヤットゥ(インドの古武術)などが当時の外科医、内科医の必修科目であったことなどに実はとても深い意義があることなどを調べ始めました。また、アメリカでヨガを学びながら、西洋人に「禅」のことを訊ねられながらも、禅についての知識が彼らよりも浅いことを恥じ、皮肉なことに西洋文明という鏡を経由して禅のことを知り始めているところです。実際ヨガはインドから東南アジアや大陸を経由し、ヒンドゥー教だけでなく、仏教や禅の影響を相互に糾いながら発展してきたという史実を探る旅にも出かけました。

私自身も私が育った環境も現代の日本人らしく無宗教であり、家の中では神棚に手を合わせ、息子の幼稚園では賛美歌を歌い、ヨガにおいてはマントラを唱える、というような良いとこ取りの生活です。霊感も強いほうではないでしょう。しかし、まったく神様の存在を信じていないかというとそうではありません。困ったとき、救われたとき、見えない大きな力を感じることは多々あります。

ヨガも宗教と同じように、それが救いになるというとき「祈りは信じるものの気持ちを変える」という言葉がしっくりくることでしょう。私たちはそれを信じることができるから、それからの影響を感じることができるわけです。

【心の動きを止めるなど神業】

リストラティブヨガを学ぶ過程において、私たちの苦しみが私たちの心の動きによるものだ、ということを刷り込まれました。もちろんこれは、リストラティブヨガだけではなく、ヨガ全般について言えることではあるのですが、ヨガではよく「心の動きを止める」と言うのですが、凡人代表のような私にはそれがどんなに難しいことかよくわかります。ヒマラヤの山奥に修行に行けるのならまだしも、現代社会で普通に暮らしている私たちの心の動きが止まるわけがありません。(それについてのコラムはこちらをご参照ください:http://medical-yoga.luna-works.com/column/archives/2028)

【エゴがある限り心は動く】

心の動きから私たちがなかなか自由になれないのはどうしてか、それは私たちにエゴがあるからです。さて、エゴとはいったい何か。これについても多くの議論があるかと思いますが、思春期、私たちが一度は直面する「自分とは何者なのか」という問いかけになります。
自分とは何者なのか、と問うたとき、ひとつは「I am from it 」つまり自分の起源はなんなのか、ということがあるかと思います。自分は誰から生まれ、何人で、どこに所属し、ということが多かれ少なかれ自分自身を定義しているということです。サンスクリット語では「アハカン」といいます。オオカミに育てられた子供が人間に引き渡されたとき、その子供のアイデンティティはどこでオオカミから人間になったのだろうか、という問題です。

もう1つ、私たちのエゴを形づくっているものに「アスミタ」という概念があります。これは「I believe it 」というものであり、もっと言葉を選べば「自分が信じているものを正しいと思う気持ち」のことです。これは私たちの成長過程において培われるエゴです。よく、子供の魂は真っ白だと言いますが、実はこれも近年研究が進んでおり、体内にいるときから私たちの認知は影響を受けていると言われています。しかし、圧倒的に私たちがこの世に産み落とされてから経験する様々な出来事や環境の影響を受け、私たちの神経回路は人それぞれ異なるつながり方をし、それがもとに意識下、無意識下ともども精神活動が行われるわけです。

「真実は何か」これをめぐって、世界中では大きな議論がわき起こり、ときに殺し合いまで行われるわけですが、真実というものがこの世に存在するわけではなく、一人一人が「私はこれを真実と思う」ということを持ち寄って暮らしているだけのことです。だから、ある人にとっての正義はある人にとっては巨悪でありうる。しかし、歴史や共同体の影響を受け、多くの人々の共通認識としての「正義」や「平和」の概念が存在することもまた確かです。人間という種も、子孫存続を願う一生命体として、存在を否定されたり脅かされることには抵抗を示す生き物です。殺し合いはやはり悪ですが、世の中には殺し合っても守るべき正義を信じている人がいることもまた確かなのです。

【人は誰しも自分の思想を信じている】

ヨガの教えの中に「非暴力(アヒンサー)」というものがあります。これは、傷つけない、暴力を振るわない、というように説明されることが多いですが、否定しない、ということも含まれます。物事を否定するとき、私たちは1つの側からしか物事を見ていないことが多い。いろんな方向から光を当ててみると、否定ではなく肯定に変わることもあるわけです。つまり「こうでなければならない」という頑な考え方に気をつけなさい、とヨガではといているわけです。みながみな、それぞれ「こうでなければならない」と思っている気持ちを譲り合えないとき、衝突や戦いが起こります。私はこう考えるけど、あなたはこう考えるのね、という譲歩や歩み寄りが大切、これはヨガに限らず、広く観れば非常に東洋的な思想が背景にあるような気がします。善と悪をシロと黒で塗り分けてしまうのが、もしかしたら西洋文明のベースにあるかもしれませんが、東洋文明の建築や宗教観をみていくと、仏教寺院のてっぺんだけヒンドゥーのお飾りが乗っていたり、いい意味で「何でもありだから、そのあたりはゆるく、寛容に」という懐の深さ、言い方を変えれば雑多なごった煮、肝っ玉母ちゃんが全て抱き抱えてしまうようなところが東洋文明にはあるような気がします。それは、理路整然をのぞむ感覚からは堪え難い状況でもあるでしょう。

話を戻しますが、結局世の中には「真実」があるわけではなく「私はこれを真実だと信じる」というところに私たちのエゴは存在し、これをサンスクリット語では「サンスカーラ」とよび、執着や先入観、悪癖というかたちでしみついてしまったとき、私たちを自由にしないと警鐘をならしています。誰にでも思い込みや信心はある。だけどそれは自分の信心であり、人には人の思い込みや信心があるということを私たちはつい忘れ、自分と異なる考え方を持つ存在を危険と感じ、退けようとしがちです。あるいは、自分が信じていると思っていたことがある日突然信じられなくなることもあるでしょう。信じていた人や物事に裏切られたと感じることもあるでしょう。そんなとき私たちは深く傷つき、自分(エゴ)を見失ったような感覚におそわれます。
また、自我を抑圧した生活を続けているうちに元気がなくなっていく、ということもあります。エゴというものは暴走すると問題を起こしますが、あまりに弱くなってもそれは問題なのです。

【仲良くできないことが問題だ】

同じ考え方を持つものどうしが意気投合し、協調していくのは当然のことで、問題が生じるのは異なる考え方を持つものどうしが協調ではなく競争や不協和を始めるときです。よく、宇宙船地球号というたとえが使われますが、私たち人間はそれぞれの利害関係を持つ国民として存在しながらも、大きな宇宙の中では皆で生き延びていかなくてはならない同じ乗組員なんだ、と考えれば共通の目的に向かって利害を調整し合うようにできているわけです。家族ですら心が離れることがありますが、一緒に危機に直面したりすると運命共同体としての絆を再認識できたりするわけです。

【エゴを認め合う社会】

テクノロジーはFacebookやブログなどで個人が「自分はこう思っている、こう感じている」を発表できる場を広げました。どんな些細なことから、どんな壮大なことまで。それに「いいね」をしてもらうことで、私たちは、私たちが信じていること、思っていること、感じたことを肯定してもらっていることを確信できます。お互い様の小さなエゴ発表会、それは人としてごく自然な欲望満足プロセスです。それをテクノロジーが可能にしたのです。
それが「あたりまえ」が出発点になる私たちの子ども達。自分の気持ちや想いを伝えられる人は、目の前の人たちだけに限らない、無限大の世界です。
誰に対して、何を自分は伝えたいのか、ということがますます難しく、ますます面白くなる社会を生きていく子ども達。
エゴやエゴのぶつかり合いについてしっかり考える教育も、必要とされてくるのではないでしょうか。

【遺伝子そのものではなく、遺伝子を取り巻く環境こそが問題だ】

さて、ここからが本題ですが、最先端の生命科学が今注目している概念に「エピジェネティクス」というものがあります。これは言葉の定義から説明しますと「エピ」は外側とか離れてという意味で、「ジェネティクス」は遺伝学です。つまりエピジェネティクスとは、従来考えられていた遺伝学の「外側で働いている力」あるいは「外側で働いている仕組み」を研究する分野です。

これまでの生物学の定説は、遺伝子がすべてを決定する、というものでした。さらにその根底にあるのは、生物同士が競争するという前提にたったダーウィンの学説です。しかし、遺伝子が生命をコントロールしているという科学的な仮説には決定的な落とし穴がありました。それは、遺伝子は自らのスイッチのオン、オフができないということでした。環境の中の何かが引き金にならなければ、遺伝子は活性化しない。この事実は、ダーウィンを支持する学者たちの間で、みごとなまでに無視されてきたことでした。ダーウィンの理論が誕生したのを境に、現代科学は神やエネルギーという概念を「説明のつかないもの」として封じ込めてしまい、今日に至っているわけです。

しかし、神の存在を信じる信じないを別として、今や、私たち人間が無力な生化学的機械でないことは、私たちは薄々と気がついています。心や身体の調子が悪ければ、薬を口に放り込めばいいというものではない。薬剤や外科手術は有効な手段だが、濫用されないという前提のもとであり、薬を飲めば一発で治る、という考え方は根本的に間違っている。A機能を正そうとして薬を体内に入れれば必ずBやCの機能を狂わせてしまう、本人の自然治癒力が、治療や薬の効き目に大きく影響する。

同じように、遺伝子の研究はめざましくも、私たちは遺伝子の犠牲者ではない、という概念、つまり「エピジェネティクス」にも注目が集まっているわけです。

【1つの遺伝子で運命は決まらない】

遺伝子が私たちの運命を決定づけるような、たったひとつの欠陥遺伝子が原因で生じる病気は確かに存在します。しかしそのような単一遺伝子病を発症する人は、人口全体の2%にも満たないのです。残りの大部分は、健康で幸せな生活を送ろうと思えば送れるだけの可能性を持つ遺伝子を授かって生まれてくるのです。実際、こんにち私たちを苦しめている糖尿病や心臓病、ガンなど、私たちから健康で幸せな生活を奪い去ってしまうと思われている病が増加しています。でも、いずれも単一の遺伝子によって引き起こされるものではないこともわかっています。多数の遺伝子や様々な環境要因が相互に関係し合った結果発症するものがほとんどですが、その遺伝子のパラメーターや、環境要因はまだ解明されておらず、説明がつかないのです。

これについては、メディアの報道で「関係する」と「引き起こす」という語を正確に用いていないことが多く、これが混乱を招いているとも言えます。引き起こす、というのは命令を出し、コントロールするということです。では実際、車の鍵が車をコントロールするのでしょうか。鍵がなければエンジンは動きません。では、挿しっぱなしにしていただけで、鍵が勝手に車を暴走させてしまうのでしょうか。鍵は車のコントロールに「関係」はする、だけど車を実際にコントロールするのは、鍵を差し込んでまわす人間です。同じように、遺伝子の中には、生物の行動や性質に関係しているものがある、しかしそれらは他の何かがスイッチを入れることで初めて働き始めるのです。

【スイッチが入るかどうかなのだ】

では、何がスイッチを入れるのでしょうか。それは「環境からの信号」です。前述の通り、遺伝子が自分自身でスイッチを入れる資質を持っているわけではなく、遺伝子を取り巻く「環境こそが問題」ということになります。

【スイッチが入った生命は協調を目指していく】

では、生命が存続可能な環境とはどういうものなのか。

それは、生物圏の中で生命が存続していくためには、競争よりも協調が大事な役割を果たしているという根本的な事実に基づいています。生物圏の間でも、先ほどの「宇宙船地球号」の仕組みが働いているわけです。生き延びていくためには喧嘩は得策ではない、ということを生命体は本能的に知っているのではないか、ということがわかってきているのです。

【ヨガが説く共存共栄の教え】

一例を挙げれば、生物学がこれまで無視してきた、多種多様な微生物たちとともに進化し、共存を続けているということに、ようやく最先端の生物学も気づき始めたということがあります。これは「システム生物学」という新しい分野として広がっています。有名な論文に「We Get By with a little help from our little Friends」( ビートルズの With a little help from my friends にちなんだもの)。ここ数十年と言うもの、微生物は悪者だからやっつけなくてはならないと教え込まれ、抗菌石鹸や抗生物質など、いろいろなものが開発されてきました。しかし微生物は悪者といういい方はあまりに短絡的で、人間の健康に取って必要なバクテリアも多くいることは視野に入っていません。微生物と人間とは協調して生きている。抗生物質の濫用は、いずれ私たちの命が脅やかしていくでしょう。抗生物質は相手を区別しません。有害なバクテリアだけでなく、人間の生存に必要なバクテリアまでも殺してしまうからです。
一方、様々な文化継承の中、私たちは本当はしっているのです。微生物との協調は得策だということを。だから、味噌や醤油、チーズやワインや漬け物が、身体にいいと伝承されてきているのです。ヨガでいうところの「殺すなかれ」は、微生物や動物も含め、私たちは運命共同体であるという意識を持つ大切さへの教えなのです。

【協調に適した環境、そこに働く力をどうやって測定していくのか】

さて、エネルギーやパワーということに話を戻すと、結局はパワーやエネルギー、神の力、さらには科学で説明のつかない事象をどうやって現代西洋医学に取り入れていくのか、ということを考えたとき、医学教育の場が、今後エネルギーを基礎とする環境をも視野に入れていくことが必要とされていくと思います。それは、生命科学ではなく量子物理学の領域になってくるのかもしれませんが、エネルギーや地場がどう変化するのか、それが細胞のスイッチにどう影響するのかがわかってくれば、代替医療や、古代から現代までの信仰のスピリチュアルな知恵など、全てを科学的、哲学的に追求するための土台がやっと出来上がるのではないかと思うのです。
今の段階でそれらがミステリアスだと片付けられてしまっているのは、それを説明する方程式や変数がまだ見つかっていないからでしょう。

【測定できなくても幸せだ】

もちろん、学問の進歩という意味ではそれらが解明されることはとても面白いことでしょう。でも、そういうことを抜きにしても、私たちが毎日が天国だと思える幸せを感じることができたら、理屈抜きに喜ばしいことではないでしょうか。

ヨガは古来、苦しみからの解脱を目指し始まったといわれています。ですから、当時のインドでは、お坊さんのヨガと、不可触民たちのヨガは異なっていました。なぜなら、それぞれの苦しみが異なっていたからです。そう考えると、古代のヨガと、現代の私たちのヨガのアプローチが異なっていても不思議ではありません。今を生きる私たちには、私たちを取り巻く環境ゆえの苦しみがあることでしょう。

【社会が細胞に影響を与える?】

もし私たちが生まれた環境が恵まれないのなら、社会が手を差し伸べることはできるわけです。チャンスがあれば、私たちの子供は環境を変えられるのです。
(参考:「ハーモニープロジェクト」米国で行われている、貧しい子ども達が無償で音楽が学べる機会づくり。音楽を学ぶことで、視覚・聴覚等が同時につかわれることで、学業成績が向上しているとのことです。

【あきらめるのはまだ早い】

私たちの脳の働きを決める脳神経細胞「スパイン」のつながりは、残念ながら大人になると動きが抑制されてしまうそうです。抑制されないとどういうことになると、早期に疲弊した脳神経細胞はアルツハイマーのような状態になってしまうので、これも細胞がわしたちを守っている戦略と言えますが、私たちの脳にはちゃんとプランBが用意されているのもまたすごいところです。脳神経細胞のつなぎ目を強化する「ミエリン化」という働きによって、私たちの思考回路は経験を刻み付けます。つまり、努力は裏切らない、ということなのです。これは古来からヨガにも使われている手法で「プラクティス(繰り返し)」が変化を起こす、という教えです。リラックスは貯金できる、とよく言いますが、リラックスできた、という記憶も細胞がちゃんと覚えています。私たちは教育というと何かを身につけるトレーニングばかりを積まれてきています。もちろん子供の成長を促すにはそれはとても大切なこと、だけど現代社会を生きてきた子ども達が大人になってからの様々な不定愁訴をみていると、子供のうちに瞑想やリラックス、安心感を得る方法を身につけておくことも、身を守るための術として大切なのではないかと思うのです。

【天国と感じられれば天国だ】

天国・・天国とはこの世ではなく、私たちが暮らす地球の環境がどんどん破壊されていると耳にしても、天国というものが、神様や祝福された死者たちの世界だと考えられているとしても、美しい夕焼けや大自然を前に私たちはこの世を天国だと思う瞬間があります。景色のような外的な刺激だけではなく、私たちの心が、この世を天国で素晴らしいところだ、と感じる瞬間さえあります。そのような、身体的、精神的に健やかで満たされた状態、それはどうやったら実現可能なのだろうか、ヨガはそれを追求してきたわけですが、そのひとつの鍵として「祈りは祈るものの心を変える」つまり、魂の存在、神様の存在を意識し直すこと、私たち人間が、神様の姿をかたどってつくられたからこそ、私たちが暮らすこの世は神様に守られた幸せな場所ー天国なのだ、という前提は、現代科学の合理主義からは、決して信じてもらえないことだと思います。それでもなお、ヨガはそこに確かにある幸せを見いだそうとし、目指すのです。

【自分があって他者があるから愛が交歓される】

最後に軽く触れるだけになってしまったが、どうして、生命体は協調を目指すのか、について。これはヨガの語源が「つなぐ」「結ぶ」であることとあわせて考えると非常に興味深い。私の師がよく言っていたこと、それは「Separation causes sufferings 」別離の感情が苦しみを生む、だ。これは先ほどの「宇宙船地球号」での運命共同体意識にも通じることであるし、理想と現実のギャップが苦しみを生む、にも通じるように思う。
なぜ私たちはつながりや協調を求め、そこに悦びを見いだすようにできているのか。

【それは私たちが多細胞生物だから】

それは地球上に存在するほとんどの生命体が単細胞生物ではなく「多細胞生物」であること、つまり、細胞自体が協調し合わなければ存続できないという枠組みで出発しているということ、そしてもうひとつ、多細胞生物であるがゆえに、細胞と細胞を隔てる「細胞壁」の役割が、自分と他人を隔てるものとして重要な意味を持ち、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが自分ではないか、を区別せざるを得ないこと、これがエゴとエゴのぶつかり合いを生むことを私たち命は本能的に知っており、いっぽうで、エゴとエゴが協調し、結ばれたときの幸せをも知っている、私たちはこの世の中に「単独」で存在しているわけではないということの、悦びと、切なさの両方を知っているから、私たちが幸せを感じ、幸せな個々が、上手につながる方法を学ぶために、ヨガというものが生まれ、支持され、伝えられてきているのではないかな、と思うのです。
もし私たちが単細胞生物で、この世にたったひとつの存在で、自分と他人を分けるものもなければ、私たちは恋をすることも、別れを惜しむこともないでしょう。自分と他人の区別があるから、異物に脅威を抱き、受け入れる悦びを知る。呼吸はまさに、世界と自分との、入れて、出して、の交換の連続だ。美味しいものを食べて、出していく。人と出会って、別れていく。
自分と他人との区別があるから、私たちは人からどう見られているかが気になり、人に評価されれば喜び、自分のこと等身大以上によく見せようと努力します。もっとも、現代の傾向は自分の内側を見つめる時間よりも外部からの刺激に反応する時間の方が多くなってしまっている気はします。快適に処理できる限度を超える刺激にさらされ暮らしているうちに、刺激に対し過敏になりすぎたり、麻痺しすぎたりしていることで、様々な問題が起きているようにも見えます。

【多細胞生物は協調せずには生きられない】

生命体としての細胞が、幸せを感じるためには、環境こそが問題なのであって、その細胞の複雑な集合体である、人間にとっての環境を大きく左右するのは「呼吸」と「背骨を中心に広がる、脳と神経のレイアウト」ではないかと考える。だからヨガではこれらを呼吸法やポーズによって整えていく。実は、脳の環境も大切で、現代人はどうしても、刺激過多の環境にあり、脳を取り巻く環境に余裕がなくなっている、だから瞑想をして、脳が正常に働けるような「空間」を生み出していく心がけも大切なんだ。現代人にとってのヨガの位置づけというのはそういう点にあるのではないか、というのが、独りよがりかもしれませんが、私の見解です。

【理屈抜きがあふれる日常】

どうしてそのことを書こうと思ったかと言うと、主人と喧嘩してずっとくすぶっていたのですが、花束を片手に帰宅してくれたおかげで、私の環境ががらっと変わったとたん、二人の世界、いや、息子にとっても世界の様相が一変したからです。息子は「女の人に花を贈る」ことのパワーを理屈抜きで感じ取っていたようでした。さあ、これをどう科学的に証明できるのか、と考えたとき、理屈抜きでも何でも、「環境こそが問題だ」は私たちの心と身体の健康を決定づける上で、まぎれもない真実ではないか、と思ったのです。花束1つが環境をがらりと変える。私たちのレイアウト(関係性)を変える。関係性が変わると、世界が変わる。それは、魔法に思えるかもしれないが、ずいぶん高い確立で成功する魔法のように思えてきます。

【自分の命を高め、社会で調和して暮らす】

私たちがヨガをする理由。私たちが、多細胞生物で、一人では生きていけない細胞から成り立っている。協調しなければ生きていけないところで生きている。この世に立った一人の存在ではなく、自分と他人を隔てるものを自覚している。そこに、孤独感やさみしさとはうらはらに愛情や理解されたい、受け入れられたい、という感情も芽生える。自分と異なる存在とつながり、うまくやっていくためには、受け入れ、かつ侵略されないというちょうど良い距離感をお互い保たなくてはならない。私たちは個として、快適な自我というスペースを確保しつつ、自我を失わないだけの健全な境界線を持っている必要がある。そのためには、私たちは自分の命を機能させ、維持するるに十分な強さと、風通しの良さが必要であり、それは、しっかり続いていく呼吸であり、生命維持装置である脳と神経、心臓と血管が滞りなく巡れるような身体のレイアウトを確保することである。よりよく生きるためには、呼吸のリズムが乱れず、レイアウトが崩れないことが大切。崩れてしまったら、もしかしたら私たちは自分の殻にこもってしまったり、相手への攻撃を始めるかもしれない。社会の一員として健全に存在するためには、自我が強すぎてもいけないが、自我が弱すぎてもよろしくないようだ。

ヨガはよく、自分探しの旅、と言われるが、自分と世界との関係性を探りながら、自分とは何者なのか、どう存在しているのかを確認していく作業でもありそうです。

【自分が信じるものを確認する作業】

私たちがこころとからだを病んでいるとき、私たちは神様から見放されたような気持ちになります。実際には見放されていないかもしれないのに、です。信じる心が弱くなります。たとえ調子が悪くても、神様に守られている、と思うと生命力が強くなったように感じられます。ヨガでは、祈りや唱え言葉を通じ、自分が神様に守られていることを、忘れないようにする営みでもあります。それをもって、エネルギーが高まったと表現することがありますが、科学的にはまだ証明ができないのです。私たちの信じる力が測定できるようになれば、祈りや祭りがもつ癒しや治療の効果が証明できる足がかりができていくことでしょう。それは科学がどんなに進歩しようと、ずいぶん遠い未来のような気がしています。

【臨床データの収集より確かなもの】

そうなってくると、ヨガを科学的に証明する、などといった壮大なことは宣わず、今できる精一杯の説明、呼吸をすると、ポーズに取り組みながら身体のレイアウトを変えると、瞑想をして気持ちに余裕をつくると、エネルギーのレベルが上がるよ!ということを実践をもって伝えていくこと、その輪を広げていくことがやはり大切なのかな、とも思います。

ヨガが乳がん患者さんの気持ちを元気にする、とか介護に携わる人たちの仕事ぶりを変えていく、ということを科学的に証明していきたいのはやまやまなのですが、結局ヨガが教えてくれることというのは、やってみなければわからない、ということであり、完璧はない、ということでもあり、完璧(ベスト)はないけど、ベターを探っていくことはできる、ということでもあると思います。そのあたりも、臨床データを集計していくことはもしかしたら不可能ではないかもしれませんが、やはり科学で証明できることではなさそうです。ヨガを科学的に証明する、といって、臨床データの収集に奔走する傾向への警鐘は、すでに研究の最先端を走るヨガセラピストたちの間で声が上がっていることは救いだと思います。

【証明できなくてもいいことを残しておく】

ダーウィンの進化論の登場によって、神や宗教、教会ではなく科学至上主義に入れ替わったこの社会において、科学も大事、でも、神もいた、ということ、つまり両方を認めていくこともヨガ(バランス、結びつき)というのではないかと思います。無宗教の私が言っても説得力がないかもしれませんが。。現代の生命科学からヨガに光を当ててみようと試みたところで、ヨガにはちゃんと健康に役に立つ理論で証明できるんだよ、という想いと、いやいやそんな理屈は抜きにして、私たちは神様に守られているんだよ、要はそれを信じるか信じないかなんだよ、という想い、後者に共感と理解を示してもらう方が、エネルギーレベルの測定を成功させるより、それでもずっと近道であるような気がしています。結局、正しい正しくないにかかわらず、納得する人が多いことは支持される、のが群衆の現実です。ヨガが正しいか正しくないかは、ヨガがいいと思う人が今後増えていくかどうか、ということでしかないのでしょう。神や祈りや、宇宙や神秘、に興味を持つ人が減らないようにすることが、この地球のバランスをとっていく上で大事であり、私たちが子育てを通じてできることでもあるのかもしれないと思います。もし、これからの全ての子ども達が、神の存在を切り捨て、全てを科学的に証明しようという社会をつくっていこうとしたら、やはりとても生きづらいと思うのです。証明できなくてもいいことを残しておく心の余裕、科学的にはもしかしたら、あきらめや限界や折り合い、と呼ぶのかもしれませんが、それが世界の平和を守るのかもしれません。


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