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ヨガで養う解毒力

最近「毒親」という言葉がメディアを騒がせていますが、自分も親になって子供にとっての毒にはなりたくないと思いながら感じること。。

多かれ少なかれ、毒をもっていない親などいないのではないかということ。
そして毒かどうか、ということもだけど、その毒に本人がどれだけ過剰に反応するか、ということも親の毒性を決めているのではないかということ。

私も思春期の頃からそして今でも両親と喧嘩をすることはあるけど、感謝してもしきれないと思えていることは、私にとっての幸せの一つだと思っています。
親は配偶者と同じく、自分にとって一番身近な存在。鏡のような存在だからこそ、自分のコンプレックスや弱み、そして憧れが一番映し出されやすい。失望が大きいということは、期待が大きいことの裏返しでもあるから、他人には感じない不満や憤りを親に感じてしまうのは当然のことだと思います。自分の親にはこうあってほしい、自分の親だからこうあってほしい、愛する主人だから私にこう接してほしい、など、愛すれば愛するほど、勝手な期待も高まるものです。親が子に対してもきっとそうなのでしょう。だから、子供にとって親は疎ましい存在になり、反発する。
だけど、あるときちゃんと気がつくのではないでしょうか。親が持っていた毒性なんて、他の親御さんだって持っている程度のもの。そんな毒を帳消しにしてくれるほど、親が注いでくれた愛情は薬となり、栄養となり、自分を支え、育んでくれたのだということ。子供の頃、痛いの痛いの飛んでけと、自分を守り、味方になってくれたのは誰だったか。毒より薬の記憶がちゃんと残っていれば、生涯その毒に反応しなくてもいいのではないかと思うのです。

親の期待は確かに重かった。だけどその期待があったから、それに応えようと頑張れた自分もいたのではないか。まったく期待されなかったら、子供としてもさみしかったことでしょう。そのさじ加減をうまくできたら苦労しません。子供は子供なりに、親は親なりに希望するさじ加減で衝突して当然かと思います。そしてさじ加減を間違え合った親子は辛い時間を過ごすけれども、いつかトンネルを抜ければそれも思い出としていい塩梅に収束していくのが普通ではないかと思うのです。

レジリエンス、という言葉も注目を集めていますが、生きていく上で自ら「解毒作用」を持ち備えることも、必要なのではないか。毒を毒だ毒だと恨みつらんでも、誰もその毒は解毒してくれません。自ら解毒する力、毒が薄まるまでじっと耐える力、あるいは魚のように毒のない水域まで泳いで行く泳力を有していたら。

心の病では「親との関係を乗り越えない限りは解決できない」などとよく言いますが、親との関係はすなわち自己や自己の抱く理想との関係でもあると思います。自分の期待感と、現実の間にどう折り合いを付けていくか。
親のこんなところが嫌だ、こんなことが許せない。
ヨガでもキリスト教でも「許しなさい」「受け入れなさい」と説いています。なぜならそれはとても難しいことだからでしょう。
もっとこんなお父さん、お母さんだったら、ということがないわけではないけど、こういうお父さん、お母さんだったから今の私がいる、二人がいたから今の命がある。ヨガにおける命の原点への感謝とはそういうことなのではないかと思います。それを忘れてはいけないよ、ということを教えながら、ヨガは「自らの命を、呼吸を丁寧に観察しなさい」と説いているわけです。私たちの呼吸が始まったのを誰よりも喜んだのは誰だったのか、それはご両親だったことでしょう。幼少期、このか弱い呼吸が途絶えないように守ってくれる人がいなかったら、私たちは今存在できていないはずです。

毒にばっかり目を向けず、自分が生きている証は親がいたからだ、その存在にただ感謝しようよ、と思うのです。
パワハラだとも言いますが、親は子供が小さいうちはパワーを持っているから当たり前なのです。程度にもよると思いますが、子供の立場から見たら親のパワーは濫用に見えることでしょう。でもそれも、自分がやがて親になってみると、当時の親のパワー行使の理由がわかってくるものです。これもヨガの考え方だとおもいます。「先入観があると真実を見誤る」や「物の見方は決して一つではない。光を当てる方向によって真実は変わってくる」など。

そんなことを言えるのは私は義理の両親にも恵まれ、自分の両親にも恵まれているからかもしれないのですが、洋の東西を問わず自分の親を敬える社会を育むことは幸せの一つに数えられるのではないかと思います。完璧を求め、毒に敏感に反応する抗菌社会では生き続けることは大変だと思います。それとも、やっぱり現代社会はそんなに毒性が強いのでしょうか。確かに子供にゲームを与え交流を持とうとしないことは「毒」になると思いますが・・。

私もいつか可愛い子どもたちに「毒」と呼ばれる日が来るのかもしれません。それでも、最近の「毒親」ブームから学びながら、子供を苦しめないようにすること、そして子どもたちにとっての毒を帳消しにできるほどの愛情の記憶を子どもたちに残せたらいいなと思っています。息子にとってはお母さんの存在はすでにパワハラの域を超えているかもしれませんが・・・ごめんね。。

私の父ももうすぐ80歳を迎えます。ダイエットをしていた高校生の頃、いらないというのに毎日ミスタードーナツを一箱買ってきてくれた父の気持ちはちゃんと私の肥やしになっています。母がずっと私の味方でいてくれたように、私も子どもたちの一番の味方でいてあげたいと思います。


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