メディカルヨガコラム
メディカルヨガHOME > コラムトップ > ヨガの素敵なお話 > 癒し:同性への恐怖が感謝へ

コラム記事カテゴリー

症例別ヨガの処方箋

ヨガ×スポーツ

ヨガが役立つ未来

ヨガの素敵なお話

ヨガはやさしいリハビリ

リストラティブヨガ

オンライン講座 好きな時に学べるヨガセラピー

メディカルヨガ公式サイト

ヨガの素敵なお話

癒し:同性への恐怖が感謝へ

私は0歳の娘が大好きだ。
娘に癒しをもらっている。
最初、女の子、と聞いた時に、恐怖が走った。
自分のような子が生まれてきたらどうしよう。
自分のように、両親に迷惑をかけたらどうしよう。
両親に感謝しているけど、こんな不詳の娘だし。
私より生意気だったらどうしよう。
女同士、張り合って、仲が悪くなるのかな。

だけど、生まれてきた瞬間、そんな心配は吹き飛んだ。
溶けてしまいそうなぐらい、可愛い。
息子に日々子育てのエネルギーを使い果たしているからかもしれないが、孫のように目を細めている。何をしても怒らない。怒れない。

メディカルヨガを展開する上で、
癒しという言葉はあまり使ってきませんでした。
一言で片付けられることではない、という実感が私の中にあったからです。

でも、今、癒しという言葉に私なりの解釈をするとしたら「赦してもらうこと」
一昨年「ありのーままのー」の大合唱が日本を、世界を覆いましたが
ありのままの自分を認めるなんてそんな簡単なことではないと思います。
人にエゴがある限り、私たちはありのままのどころか「こうあらねばならない」「こあってほしい」をお互いぶつけ合い、自分にすら課している。

どんなに愛しい息子も、自分の意に反することをすれば怒りたくなる。
息子の場合は特別で、娘が癒しなら、息子は理想だ。私の夢で、私の野望でさえある。
立派な子になって欲しい、その立派さの尺度は、私のものさしだ。
それを押し付け、それにそぐわない時の私の反応といったら。多かれ少なかれ、親は自分の美学を子供に押し付けようとするのだろうが、意識的に、無意識的に、私の場合はかなりだと自覚してはいる。自分が果たせなかったこと、自分の憧れ、全てを息子に託している。

自分の両親に対してもそうではないか。
赤ちゃんの時から守って育ててくれた両親。
時代の違いを経て、環境の違いを経て、自分に培われてきた価値観と異なった時
自分の美学との違いを否定してしまいがちだが、
今の自分を作ってくれたのは両親が自分を育ててくれたからだということを忘れてはいけないのではないか。
現に、親というものは、こごとを言いながらも大局的には自分を許してくれている。
そうでない人もいるかもしれない。
私は、許してくれ、支えてくれ、今も小言を言ってくれる両親に感謝しています。

今は、私の娘が何をしようと、目を細めて「いいんだよ、いいんだよ、そうなんだね」と言える自分がいる。それは、自分に向かっていっているような気がするから、私が癒されているのだ。自分に向かって言って欲しい言葉を、私は娘に言っている。

私は娘が大好きだ。いつも言う。私は娘になりたい。
なぜか。私に、心から愛されているから。心から許されているから。泣けばいつだっておっぱいをもらえ、抱きしめてもらえる。私も、そうされたいんだ。無条件に愛されたい。
主人も娘を大好きだ。息子も、頑張っているのだと思うが、息子なりに突如現れたライバル娘を可愛がっている。本当は、自分のエゴとの葛藤で大変なんだろうなと思うが。

私がして欲しいこと、してほしかったことを、娘にしてあげたい、
いろいろなごめんなさいも含め、許してねというメッセージも含め、娘と接しているので、一緒にいる時間がとても楽だ。

「こうあってほしい」ではなく「そのままで、かわいいよ」
本当に不思議なのだが、娘に在りたい自分を投影しているんだと思う。
いっさいの「こうあってほしい」がない。

私たちの人生に「こうありたい、こうあってほしい」がないことがあるだろうか。
むしろ私たちの人生は、その塊、その凝縮ではないか。
だから、私たちはときに疲れ、ヒーリングサロンに向かい、気晴らしを求める。
でも、一番の癒しは、私たちが、自分らしくいることを誰にも強制されず、誰にも責められず、許してもらえる時間ではないだろうか。

その時間を取り戻すのが、あなたはあなたらしく「わがままを言って、いつも責められていることを堂々として、引け目を感じていることを自分らしさだと誇れる」そんな時間ではないか。

今、母として、私は息子を癒せずに困っている。
自分の中の嫌なところを息子に見つけると「おやめなさい」と責めてしまう。
同じように、主人の嫌なところを、両親の嫌なところを。
愛する息子を愛することを、美しく仕上げることだと勘違いしているのだ。
だけど、きっと息子は自分のいいところを見てほしいんだと思う。
私たちがいかにバイヤス(先入観)ヨガの言葉ではサンスカーラ、で真実を見ようとしていないかを痛感しながらも、そしてそれを人に伝えながら、誰よりもそれに苦しんでいる自分がいます。

だけど、娘を授かり、心から赦すことの甘美さを教えてもらっています。
もちろん、主人や息子に対しても、毎日赦し赦されているのですが、無条件で抱きしめ、あなたはそのままでいいの、あなたのあなたらしさが大好きよ、と言える毎日を私に与えてくれた娘に、本当に感謝しています。

おっぱいをせがみ、私の鼻をかじり、おっぱいと間違えてお腹のお肉を吸い、二カーッと笑い、抱きしめてと両手を広げ、幸せそうに眠る私の宝物。私はあなたになりたい。
あなたの自己肯定感を、心から守り、応援してあげたい。
あなたが太っても痩せても、そのままのあなたを愛している人がいるということをいつも伝え続ける。一人でも見方がいれば、思春期の過ごし方は少し違うでしょう。
あなたのボーイフレンドは、あなたの見かけではなく、あなたの優しさと笑顔を好きになってくれる人。もちろん、愛されていればあなたの見かけは百万力。誰よりも笑顔が素敵な子になって。お母さんはそれを大げさなぐらい誉め続けようね。

10ヶ月、私をつわりで苦しめ続けたさえちゃん。
女の中の女ね、と家族で笑い合っていました。
お母さんはつわりのつらさをもう忘れてしまいましたよ。

どんな子になるのかな。私が誰よりも、あなたの味方で、あなたの理解者で、まもってあげる。そう思わせてくれてありがとう。

ひとは自分を許せない時、誰かを責めるような気がします。あなたをみていると、あなたの全てを認めるプロセスで、私は自分を許したくなってくる。その時に、私は初めて(毎回初めてのような気がするだけですが)自分の不完全さを許し、至らなさを許し、許してくださいと他人に乞い、許された時に私は自分が癒されたと思うのです。あなたの無邪気な笑顔や、こちらを見つめる瞳、気にくわないことがあればど根性で泣き続けるところ。(それは息子もあるのに)

私の至らなさを許してほしいのです、という願いは誰もが持っていて、許された時に癒されるのではないか。それが私の「癒し」という言葉に対する現時点での結論です。

息子に自我が芽生え、くせが際立ち、私の美学と対立し、それは息子らしさだと頭では消化しようとしながら、その「らしさ」を潰そうとする自分がいます。
「ありのままで」なんてきれいごとではない。
親と子供が対立するのは当たり前なのです。だって、別人格なのだから。
息子の人格を尊重する、そんな簡単なことが難しい。
昨今「毒親」ということがいわれていますが、一方的な表現なのではないかな、と思います。

毒と言われてもいい、加減して、最終的に息子に「薬になった」を目指そうと思います。まったく薬なしで「あまったれ」になって、大人になって困ったらそれはそれでかわいそうなのかな、とも思うからです。

娘のことは愛して愛して薬も毒もなしであなたは健やかで、を目指そうと思います。まったく、子供達は親の実験材料で大変です。

さえちゃん、私は、あなたを愛するように自分を愛する練習をしようと思う。自分を愛しながら、あなたのことも、あなたが女性として幸せになってもらえるようにと思う。あなたらしいあなたを守ってくれる人と出会って欲しいと思う。それまでは私たちが守ってあげる。結婚が人生の墓場と言われるのは異なる二人が出会って対立しあうからで、調和し合えば墓場は花にあふれ美しい場所ですよ。

お母さんが一番幸せだったのは、あなたのお父さんと出会えたことですよ。


ページのトップ