息子が通うカトリックの幼稚園の園長先生が、月に一回のお便りに「眼差し」をテーマに書いて下ったエピソードをご紹介します。
「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」
コリントの信徒への手紙 第3章6節子供たちは、いつでも大人の眼差しを求めています。
たとえば、よちよち歩きの子供が母親より先に歩いていて、道端に大きなミミズを見つけたとしましょう。その子供は後ろにいるお母さんを振り返ります。そしてお母さんとしっかりと視線を合わせると、ミミズの先までさらによちよちと歩いていくのです。また、縄跳びができるようになった子供は「お母さん見ててね。」と言わんばかりの視線をお母さんに向けます。そしてできると、「ホラ、できるでしょ」と誇らしげな視線を向けて、お母さんの眼差しを求めます。
子供ばかりではなく、人は誰でも「大切な他者」の眼差しを求めて自分を確認しています。この確かな眼差しを受けて、人は自分を確認し、自信を持てるようになり、さらに他の人に対しても積極的で建設的な関わりができるようになっていきます。この確かな眼差しを受ける経緯が乏しいと、他人の気を引こうとしてみたり、わざとトラブルを(無意識的にかもしれませんが)起こしてみたりすることにもつながります。
また、自分にとって大切な人からの確かな眼差しを得られない子供は、自分の存在感がぐらついて、何をやっても認めてもらえない思いを深めて無気力になる例もあるようです。多くの場合、大人が手助けしなくても優しい眼差しで見守っていれば、それだけで子供の遊びは深まり発展していきます。子供を自由にあそばせることは、ただ子供を放任することや無関心でいることではありません。遊ぶ子供に温かな眼差しを向けることは、子供の成長に欠かせないことであり、子供の成長には信頼できる大人にしっかり見守られ、自分たちの経験を共感してもらえているという実感が必要なのです。こうした眼差しの中で、子供達は内在する成長力を少しずつ表に現すようになってくるのです。
(略)
私たちは家庭で、幼稚園で、日頃から子供達にどのような眼差しを向け、どのように言葉をかけているでしょうか。たくさんの太陽の光を亜受けたサツマイモが大きく太くなるように、暖かく確かな眼差しを受けて、子供たちはその成長力を一層パワーアップしていくことでしょう。
そして、私たちがこうして生かされている根元に、神様からの温かい眼差しがあることを信じたいと思います。
子供達への眼差し、仕事をしているとつい優先順位が逆になってしまうことがありますが、できるだけ私が日々彼らのそばに存在し、眼差しに包まれた子供時代を過ごさせてあげたい、と思います。いえ、眼差しを向けることで私たちはもっとたくさんの栄養を子供達からもらうことでしょう。
しかしときに、子供の環境を整えようと時間に追われ、時間的にも身体的にも余裕がなくなってくると、自分への眼差しは一気に減ります。自分に向けられている神様の眼差しにも気づきを忘れます。
お母さんがヨガをする時間はきっと必要です。ヨガの時間のマインドフルネス。呼吸に意識を向け、体に意識を向け、リラックスに身を委ねながら、今度は自分への眼差しを向けている自分を確認する贅沢な時間。そうして神様の眼差しを思い出し、ふたたび子供達を温かい眼差しで包んであげたいものです。