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リストラティブヨガ:現実を知り強く柔らかくなること

子供から、思春期に変わるとき、子供たちは、これまで無条件に自分を理解し受け入れてくれていた「親」に代わる誰かを探す旅に出かけると言います。
それぐらい、私たち人間にとって、自分を理解し、受け入れてくれる「他人」は必要なのです。

しかし、実際、人間が独立した個の存在である以上、自分を完全に理解してくれる他者など、いないのです。
理解してほしい、という期待を抱いて人はBetter Half を探しますが、理解し合えないと別れを選ぶケースも少なくありません。しかし、理解し合いたいという相手と出会えたことが人生の恵みと思えれば、理解することはできなくても、理解に努めたいと思いながら、お互いが歩み寄ることができる、それこそがいただきものなのではないかと思うのです。

最近思うのは、自分も含め、相手に裏切られた、失望した、と声をあげる人は、自分が描いた「完璧な理解者や理想」への期待や妄想があるのではないかということです。自分が受けたショックを、誰かにわかってほしい、伝えたい、自分の理想や期待と相手の現実とのギャップは「許せない!」という気持ちに変わり、最終的には相手を拒絶するのでは気が済まず、暴言、悪態、そして執拗なまでに攻撃をしたりします。

気持ちはわかります。
でも、吐いた暴言、乱暴な避難、は、後から冷静に読み直せば「普通の人間関係であれば、普通拒絶されるでしょう」というぐらい、失礼なことが多いものです。でも、なぜ失礼なことを平気で言えるのかというと「少々攻撃的な言い方をしても、あの人なら(こんなに素晴らしい理念の持ち主なのだから)私の気持ちを理解し、受け入れてくれるでしょう」という想いがあるように思います。時にそれは、あの人なら、ではなく「あの理念なら」の場合もあるでしょう。それは、相手の人格に思い描いた理想像だったり、理念に基づいた活動に対する大きな期待であったり。

個人で面と向かって言える人は少ないものです。そうなると、実は私もそう思う、という声が集まり「裏切りを償わせよう」「裏切ったことに気づかせて、反省を促そう」という炎上プロジェクトが結成されます。

よほど意図的でない限り、裏切っているのでしょうか?
それぞれが、自分の想いの中で、一生懸命やっているのではないでしょうか。

吊り橋を一生懸命渡っている人を、橋の向こう側で両手を広げて待っている人や、固唾を飲みながら安全を祈り、見守る人ではあなく、吊り橋の渡り方が滑稽だ、正確ではない、などと非難だけは一人前の人が現代増えているような気がします。
私は、高校大学社会人と、ラグビー部のマネージャーをしていて、わずかながら学んだことがあります。
それは「走っている人は息を切らしている」ということです。もちろん、楽しんでプレーしている人もいます。ただ、それは常にではありません。一瞬、そういうステージがあることもあります。だけど、大概は息を切らして目的のために走っているのです。観客というものは、勝手なことを言うのです。「もっと早く走れ」とか「正確に蹴れ」とか。
人の非難をすることは、とても簡単だ、と言うことを自分への戒めも込めて、知っておきたいと思います。
そして、子供達にも伝えたいと思います。非難は往々にして、自分がどう思ったか、ではなく「人がこう言っていた」と言う形で伝えられます。自分がどう思ったか、を直接ぶつけるのは、まだ良い方だと思います。

ただ、期待を抱く気持ちもわかるのです。
私も子供に、勝手な、一方的な、過度な期待を抱き、一生懸命吊り橋を渡りながら失敗してしまった時に、「ダメじゃないの」「努力が足りん」と言ってしまうこともあるからです。
だけど、親しかいないのですよね。やっぱり、親は子供が吊り橋から落ちた時に笑ってはいけないのです。社会に出れば、みんなが笑い、叩くのですから、親だけは「頑張れよ!」と応援する存在でありたいと思うのです。
いつかできるようになるよ!と根気強く見守れる存在でありたいと思うのです。
なので、必ず、怒った後はごめんなさいと抱きしめる。あなたは頑張っていたけど、できなかったこともあるのね、と抱きしめる。だったら最初から怒らなければ良いのに、と思いますが(^^;;

そんなことを肌身で感じあえる相手に出会えると言う、家族という奇跡にも感謝です。

話を戻しますが、自分と相手、あるいは自分と、相手が提唱する概念の間に、相互理解があると思い込み、素晴らしい概念が私を受け入れてくれるに違いない、受け入れてくれないのはけしからん、相互理解があったはずなのに?と、失望からくる暴言を浴びせ続けます。もちろんその行動の根底には「期待していたのに、信頼していたのに(期待に十分に応えませんでしたね)」と伝えることを通じ、相手に自分の期待に応えてもらいたい、という願いがあるのかもしれません。

だけど、相互理解というものは、よっぽどの特例でない限りは、本当に長い時間をかけて、時に、信じて裏切られ、与えて奪われて、誤り許しあって、育まれていくものではないかと思うのです。それぐらい、本当に信じあえる誰かと出会えることは貴重であり、本当に信じあえる誰かとの縁は人の人生にとっての宝であり、渦中にいる時、つまりそれを育んでいるときは、皮肉なことに、気づかないものなのではないかと思います。

私が、リストラティブヨガを、Judith先生から教わって学んだこと。
それは、プロップスをどう積み上げるか、ということではありませんでした。

人は皆、理解されたい、受け入れられたい。
それが、叶えられないのが、多くの人生。
認めたくないけど、たった一人で生まれ、たった一人で死んでいく。
だけど、そんな孤独な人間に、たくさんの人の人生が交錯して、時に見守ってくれる。
自分が誰かを見守ることもあるでしょう。
お互い様の中に、温度が生まれます。

受け入れる器を育みなさい。
受け入れられる相手の存在に感謝しなさい。
受け入れられる、今の平和に感謝しなさい。

それを忘れた時に、人はいがみ合い、攻撃し合い、失望し合う。
いつでも思い出せるように、ヨガの練習に励みなさい。

リストラティブヨガの学びとは、現実を知りながら、自分がしっかり自分を肯定する時間を確保する練習だと思っています。
相手に一方的に期待し、失望する前に、セルフコンパッションを育むこと。
そうすることで、自分も自分の期待に応えられていないことがわかる、それでもその姿を受け入れることができれば、それは人や社会への寛容さにもつながっていくのではないかと思います。

自宅でできるリストラティブヨガ
Yoga Journal Vol.55 (2017年9-10月号)
115p – 監修しました。


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