ヨガに取り組むようになることで、良い効果はたくさんあります。
しかし、その良い効果とは裏腹に私たちはそれが果てしない練習であることを忘れてしまうことも、自戒の念を込めて記しておきたいと思います。
ヨガをすることによって、世界は良いところで、平和は大切だ、と思います。理想も高くなります。
だけど、本当はいつもわかっていなくてはならないことは、
どんな人も完全ではないこと。
完全ではないから、理解し合おうとし、許しあうことが大切であること。
不完全な自分を許し、相手を許すこと。
平和・非暴力とは、そこから生まれるような気がするのです。
戦いとは何か?
相手を負かすことです。
己が勝つことです。
争いたくない、なんていうのは綺麗事です。
人間の歴史は争いの歴史であり、私たちのDNAには戦に勝とうとする本能が埋め込まれているはずです。
それでも、争うことの弊害を知っている私たちはまた、争わない方法を模索した、それが瞑想であり、ヨガでした。現代には、マインドフルネスという考え方で受け継がれています。
心を今ここに、持ってくるのが大変な世の中です。
世の中に溢れる、予測、後悔、先入観。
今に気づけば、自分が生きていることを理屈抜きに感じられ、感謝でき、気持ちは落ち着いていく。自分は、今どんな環境にあろうとも、間違いなく呼吸をしています。
通っているスポーツクラブで最近行われている「クイック瞑想」
最初はその名前になんだ?と思ったものですが( ^∀^)
クイックでも短時間でも今に心を馳せれば、平和な気持ちが戻ってきます。
ヨガで高尚な理想を抱いたところで理想と離れた目の前の現実に私たちはどういう判断をするのでしょう。
「こうであってはならない!」と現実を否定することが多いのではないでしょうか。
その結果、何かを責めます。相手を責め、自分を責め、環境を責める。
不完全なこの状況をありのままに受け入れ、そうなのだと思う。
これほど難しいヨガの練習はないように思っています。
ヨガに関する臨床が盛んになり、科学が哲学から切り離されて検証されています。
ヨガの効果はなんなのか。
測定可能な尺度で測らなくてはなりません。
だけど、数値がどうだったか、という臨床結果が出てもその臨床結果が全ての人に当てはまらないことを知っておくのが医薬においても原則です。ヨガでももちろんそうです。
だけど、多くの人に間違いなく共通していること。
自分を許せない、誰かを許せない、と思っているときは辛く、心の中に暴力があふれています。
ありのままの、不完全な、自分を、目の前の現実を、目の前の相手を、受け入れ、許し、愛らしいと思えた時には、心の中は穏やかで平和なことでしょう。ヨガとは果てしないその練習ではないかと思います。私もまだヨガマスターではありません。
病や辛さを抱えた人がヨガをした時に、不安やうつの数値が変化することは測定可能です。
でも本当の効果は、その人がありのままの自分ともにいれるようになった時に、楽を感じるのではないかと思っています。
自分を否定することなく、自分を責めることなく、誰からも責められることもなく。
自らの中で感じる安心です。
それは、どうやって測定するのでしょうか。
ヨガの哲学、今ここに、そしてありのままを受け入れ、評価判断をしない。
それはこれほどまでにパワフルです。
しかし、そのことがあまり知られないままに、ヨガだけがブームとして広まっています。
セラピーとしてのヨガを理解してもらう上では、その哲学をしっかり伝えるヨガの方法論が必要になってきていると感じています。
誰もが不完全で
誰もが、それでも今にとって必要な存在で
いいところもあれば、悪いところもあって、
それでも愛おしい存在
そのことを思い出す時間にヨガがなればと思います。
そのように感じるからこそ、そのようなヨガを届けられる環境を作っていきたいと思っています。