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仏教とヒンドゥー教、そしてヨガ:その象徴的意味をさぐる旅

ジャカルタは思った以上に大きな都市だった。まず目を見張るのが、ショッピングセンターの巨大さ。これまでも、世界の都市のショッピングセンターがこれでもかと資本をつぎ込み、日本とは比べ物にならない商業施設を成り立たせているのを見てきたが、まったくその比ではない。天井の高さは日本の3倍ほどの印象。資材をふんだんに使った外装に、外国でも人気のテナントが軒を連ねる。石油という資源をもつ国の強みか、東南アジアの成長の象徴か。いずれにしても、実際にジャカルタ市民が憩い楽しむ場として、それなりに成り立っているように旅行者である私の目には映った。

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泊まったホテルの向かいにあるショッピングセンターにいくにも、ホテルがタクシーを出してくれる。目の前なのにUターンしてたどり着かなくてはならないから15分ほどはかかる。これでは渋滞になるはずだ。タクシーにはブルーバードという庶民派とシルバーバードという黒塗りタクシーがある。

まずは夕ご飯ということで、息子の手をひきショッピングセンターの地下にあるパダン料理という小皿料理のお店に飛び込みで入るが、オーダーの仕方がまずわからない。メニューはあるが、ここではまずご飯がどーんとでてきて、それにウェイターさんがいろいろな料理をもってきて、食べたいものを置いてってもらうシステムだ。隣の女性2人組は20皿近くを机の上に並べながら食べている。言葉も通じないし、焦った私は栄養のバランスを考えて二皿チョイス、そしてあとはもういらないからね、というジェスチャーで意志を伝えた。味付けは甘辛。ご飯のことはナシ(Nasi)と言うらしいということがわかった。ナシゴレン、のナシだ。デザートはショッピングセンターで買ったバナナで、何とか人間らしい食事を終える。

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翌朝、朝6時の飛行機でジャカルタ(ジャワ島の西端)からジョグジャカルタ(ジャワ島の中心下)へ。1時間ちょっとしかかからないのでプロペラ機かと思いきや、意外と大きなジェット機だ。バスで驚くほど飛行場の真ん中まで行く。そして搭乗はタラップから。自分が乗る機材が唸り声をあげるのを間近で見ることができ、現場で働く整備士の方々とも挨拶を交わせる乗り方はクラシックな気分で嫌いじゃない。光を遮られ銀行の広告が張り巡らされている渡り廊下経由ではあまりに色気がなさ過ぎる。

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ジョグジャカルタは小さな空港だ。バリ島から先に到着した、伊藤武先生(http://www.yaj.jp/ito_takeshi.html)一行が私たちを待っていてくれた。昨年のバリツアーでご一緒した方も数名、初めてお会いする方も数名。私を含め9名の大人 + 3歳の息子、そして運転手さん(アンドさん)とガイドのブディさんで、バンに乗り込む。ブディさんは私のことはブリ(鰤)さんとよんでくださいと言う。このブリさんはこのあと二日間、本当に息子とよく遊んでくれ、ブータンのときもそうだったが息子がガイドさんにしてもらった旅先での戯れこそ記録に残らない財産だろう。

まずはジャワ王朝の博物館へ。緑うっそうとした林を抜けていく。

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そもそも3歳の子供に遺跡を堪能しろというのが無理な話で、暗い室内に入るのをいやがる息子に私は手を焼いた。一行のメンバーが手を替え品を替え息子のご機嫌を取ってくれる。反抗期の少年の心は頑だ。私がこじ開けるより、ここはもうみなさんに甘えよう、すがるようにそう思った。

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マーリニーさん(伊藤先生の片腕である女性)が面白い花を息子にくれた。花びらの赤も鮮やかだが、何より目を惹くのはそのおしべとめしべのありようだ。種の存続という意志を容いっぱい主張しているようだ。この花、ハイビスカスのように低いところに咲くのではなく、木の上に赤々と咲いている。

王宮文化というのはとてもロマンチックだ。絶対的な権力と文化的影響力。そして、子孫を残すことによる一族の繁栄。たとえば、ジャワ王朝の家系図は樹木で表されている。奥方との関係がどうかとかいうことはあまり問題ではなく、いかに家系図上の花と実で表される丈夫な娘・息子を増やしていくか。

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先にジョグジャカルタの歴史的背景を簡単にいうと、ジャワ島で花開いた王朝文化はインドから伝来したヒンドゥー教と仏教の混合だ。そこには明快な境目はなく、むしろ仏教寺院の建立をヒンドゥー教徒が手伝ったり、また逆も然り、もっとおもしろいのはヒンドゥー寺院の塔のてっぺんだけ仏教のストゥーバが乗っかっていたりする。

バリ島に行かれた方はわかると思うが、バリ島にはインドにすら残っていないような美しいヒンドゥー文化が今も魂を吹き込まれたままのかたちで残っている。人々の生活の中にプージャ(祈りの儀式:供養)が今も根付いている。
ジャワ島の80%が今はイスラム教徒だといわれている。イスラム教の普及はジャワ島の仏教とヒンドゥー教徒をバリ島においやった。ジャワ王朝から伝わった文化はバリ島の豊かな自然のもと、更に花開いたのだ。いっぽう、ジャワ島のイスラム教徒は中東が行うように、もともとあったすべてを破壊しようとしなかった。ちゃんと古き善き財産を残しながらイスラムは広がっていった。なので顔や身体をヴェールで覆ったムスリムの女性たちが街を行き交い、至る所にイスラムの祈りの部屋がある都市に、人々の名字や食事、建造物に至るまでヒンドゥーの影響が今も色濃く残っている。

ヒンドゥー教と仏教は概して優しい。排他的でない。仲が良い。それをみせてくれるのが東南アジアの中心、インドネシアかもしれない。文化が上塗りされてきているのだ。結局文化とはそういうものかもしれない。日本の茶道や華道なども禅の文化の中、日本独自に花開いた。
ブータンもそうであったが、国民を優しい気持ちにしてあげられる為政者の影響力を「徳」というのだと思った。これは会社帝国、家庭帝国でも同じことだろう。私はなんという暴君だろうか。

次はジャムウといわれるいわばインドネシア版漢方のお店に連れていってもらった。
一杯50円で、コーヒー色の煎じ薬と甘いショウガシロップがセットででてくる。煎じ薬があまりに苦いため、シロップはチェイサーだ。甘いものが大好きな我が息子、喜んでこれを飲む。それでもショウガ汁を飲んでくれるなら有難い話だ。

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棚には、自宅用の煎じ薬セットが売っている。メニューは糖尿病から、腎臓、男性機能障害、スキンケア、疲労、ウェイトロス、婦人系疾患などさまざまだ。

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お土産では「伝説のジャムウ屋」のTシャツが売っている。ふつう伝説の何々、というと男性のことが多いが、ここではおばあさんが写っている。これは伊藤先生の「インドネシアのアーユルヴェーダ」をお読みいただくと説明があるが、ここでは医師から助産婦さんから市民の健康を守る職業は女性の役割だった。

ランチは池に鯉が泳ぐ風雅なレストランでいただいた。みんなでいろいろ頼んでひとり450円ほど。

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筏にも乗れる。私は進んで乗ろうとはしなかったが、ガイドのブリさんが息子を誘い出し、乗せてくれた。食事が終わるころ、別の家族連れが筏に乗ってはしゃぎすぎ、見事に転覆していた。大人の腰ぐらいの深さではあったが、息子が万が一溺れたとき、私は泳いで助けにいけただろうかとあとから思うと、旅先での自分の油断ぶりが怖くなった。

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いよいよ、仏教宇宙の巡礼へボルヴドゥールへ。
世界遺産だけあって、多くの外国人も訪れる。ツアーデスクで無料で腰巻きを貸してくれる。中東の観光地にありがちな使い回しではなく、どれも洗い立てで丁寧にたたんである。

これを身につける意味は、インドネシアには様々な宗教があり、仏教寺院を参拝するときは心のけじめ、敬意の表れとして仏教のスタイルでこういう形をとるのだということであった。以前コラム(http://medical-yoga.luna-works.com/column/archives/448)
にも書いたが、Ritural are about transformation つまりそういうプロセスが私たちの心のあり方を変えてくれるのだ。
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ジャワでは仏教、ヒンドゥーの寺院をさして「チャンディ」という。サンスクリット語でも「チャンドラー」で三日月や輝きを表すことがあるが(チャンドラアサナ:三日月のポーズ、など)Cand(チャンド)とは、光り輝く、歓喜の場という語源である。

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私のは上手い写真ではないが、チャンディの平面プランと立体プランはそれぞれ3つのパーツからなる。3はインド宇宙観の「三界」を意味するが、ヒンドゥーと仏教のコンセプトは術語こそ異なるが本質的には同一概念である。この実感こそが昨夏のバリに続きこの世界遺産を訪れた私の一番の学びであった。

簡単にいうと、地界、空界、天界である。
地界はいわば俗世。欲と喜怒哀楽に支配された象徴だ。
空界になると、すこし位があがり、まじめに修行する聖者や人間に近い神々の領域。悟りたい、という意志がある世界だ。
そして上層の天界は上位の神々の領域、いわば突き抜けたところだ。

ほとんどの人間が、地界を彷徨うだけで一生を終える。
下の写真はその様子が描かれたものだが、怪我をしたら薬を作ってもらったりマッサージをしてもらったり、というような人々の生活絵巻が描かれている。そして短い言葉で「醜い顔」と書かれているのだ。欲にまみれた人間の顔は決して美しくはない、という指摘か。

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正面と側面背面に地面から頂上を貫く急な階段があるものの、このお寺の側面には仏陀の生誕から悟りにいたるストーリーや様々な神話が描かれている。それをたどりながら回周一段ずつあがっていくと、5kmほどにもなる。

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このお寺の構造自体がある意味巡礼を可能にするほどのスケールなのだ。内側の彫刻を右手でなぞりながら回るのは、チベット密教の礼拝の回り方と同じだ。お参りすることが「入曼荼羅」すなわちヨーガを意味する。いわば仏教のアミューズメントパークをこしらえたのだ。伊藤先生が、この遺跡はヨーガの世界観をビジュアルで体験できるから面白いと思いますよ、とお誘いくださった意図がいよいよ実感を伴ってきた。

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8世紀と言えば日本では平安初期、空海の時代だ。いかにアジアで中期密教が大流行していたかがわかる。それにしても、壁面の彫刻にはその時代の文明の程度が垣間みられる。ジャワ王朝はこの時代すでにアウトリガーを備え太平洋を横断できるほどの船舶技術を有していたことには驚かざるを得ない。

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話を先ほどの三界に戻すが、3つの階層は順に小乗仏教(しもじも向け)、大乗仏教(華厳経:お坊さん向け)、密教(ハイエンド)の概念でもあり、ヨーガでいえば粗大身、微細身、精妙身と重ねあわされる。仏の世界の応報法(三身)、人と仏を結ぶ身口意(三密)とも対応している。

そもそも私自身、旅は好きでもこれまで遺跡にはまったくといっていいほど興味はなかった。ビジネススクールの仲良し三人組でイスラエル、ヨルダンを旅したときも、私の親友は事前に時代背景に関する書籍をしっかり読み込んでいくタイプ。私はそんなものを読んで出発前に知恵熱でも出したら大変と、基礎知識がまったくない状態で乗り込んだ。
その私がなぜか今、3歳の息子を伴わせ遺跡の解説に熱心に耳を傾けている。
マーリニーさん(伊藤先生の片腕)曰く「過去の遺産だと思えばつまらないものよ。教えだと思えばネ」とウインク。そうなのだ。私はヨガの教えを知りたくてこの地をたずねたのだ。

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たとえば上の写真の仏陀は大地に誓いを立てている。(片手の指先が地面についているのがわかるだろうか)これはもちろん手の印だが、難しく考えることなく「アースのようなものよ」とマーリニーさんは説明してくれた。「ブッダだって欲もあれば邪念もある。地面とつながって、逃さなければやってられなかったわけよ。」ああ、なんとほっとする説明だろうか。

途中、息子は迷子になった。というより、一行バラバラになった。ママと一緒にいたくない息子は一行の誰かと手をつないでいってしまった。心配するガイドさんや私に伊藤先生曰く「なーに、みんな冥界をさまよっているのさ。頂上でちゃんと会えるよ」うーん、深い。確かに私たちは地界、空界を散歩しているだけなのかもしれない。亡くなった方とも、ちゃんとまた会える、そんな希望すらもてそうな感覚を、まさに「身を以て」体験できる趣向凝らされた建造物なのであった。

天界の層に登るとぱっと視界が開ける。まさに突き抜けた場所だ。そして元気いっぱいの息子と再会。相当道中が楽しかったのか、まともに写真におさまってくれようとしない。

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しかし迷子の経験すら、子育てのプロセスとも重ねあわせることができるかもしれない。息子はこれから、いろんなところに旅をして、いろんな夢を見てくるだろう。私の手を振り払い、他の人と手をつなぎ、愛し、裏切られ、傷つき、向上しようとし。地上にいると、そんな未来がやってくるのが不安で仕方がない。だけど、天空でちゃんと息子は自分の所に戻ってくる、という確信があれば、そんな旅を眺めるのも悪くはない。

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天国を信じられないから、人は不安になったり、疑ったり、先入観で勝手に判断したりするのかもしれない。ありのままの容はこんなに素敵なのに。
天界で会えると信じることはなんと心を強くすることだろう。
息子、帰り道はちゃんとママの手をつないでくれた。

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ホテルに戻る前に、もうひとつ寺院に立ち寄った。ボロブドゥールとセットで建立されたムンドゥ寺院だ。男女の鳥人間の像が見守る。

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考えられないぐらい大きいガジュマルの木。この木自体が神様のような気がしてくる。(木の下でカラリのポーズをとる息子)

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寺院内部では仏さまが玉座に腰掛けている。これは、プージャー(供養)の始まりが「アーサナ」つまり、神仏の霊をお招きし、玉座に座っていただくことだからだ。アーサナとは、ヨガではポーズをとることと思われがちだが、そもそもの語源は「Do」ではなく「Please Be」なのだ。「どうかここにおわしましてください」ということだ。やってみるとわかるが、ヨガで最も難しいポーズは静止するポーズである。わたしたちはついつい、何かすることにばかり思いを巡らせ、何をしたらいいかよくないか、ばかり気にし、振り回される。

一見廃墟のようにみえるこの遺跡には、今も香華を手向けるひとがあとを絶たない。(息子もここで、お線香のそなえ方を覚えた)平安時代に栄え、10世紀後半に火山灰に埋もれたこの寺院は、1836年に発掘され、お寺として蘇ったのだ。

ジョグジャカルタで泊まったホテルは、値段はそれほど高くなかったのにジャカルタのホテル以上に豪華だった。ジャムウ(インドネシア版漢方)工場がオーナーだからか、朝食にまでジャムウがでた。テントラムとは「安心」という意味だそうで、遺跡巡りで汗と埃まみれになった私たちが羽を休めるのをしっかり守ってくれた。

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綺麗なお姉さんが、石皿とすりこぎでピーナッツや香辛料をすりつぶしたものと野菜をあえてもってきてくれた。メニューの名前はわすれたが Loなんとかと、写真の端に写っている。

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これは今回の旅での一番のお気に入りだ。ヘルシーながらしっかり栄養がありそうだ。

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二日目。今回のジョグジャカルタツアーは、バリに滞在する伊藤先生ご一行と、ジョグジャカルタ空港で一日目の早朝に待ち合わせ、二日間遊び倒し、夕方の便で解散、というものだ。先生方もバリ島に荷物を残しての一泊二日の小旅行だ。

銀行で換金をした後、バスから人力車に乗りかえ王宮へ。ちなみに、インドネシアルピーのレートは、インドネシアの価格表示からゼロをふたつ消したものがおよその日本円になるのでわかりやすい。しかし、価格をたずねるときは何百万、何十万、というやりとりになるので金銭感覚がおかしくなりそうだ。

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人力車といっても、インドのリクシャーと違い、後ろから自転車で漕いでくれるものだ。故に、眺めが良い。写真ではわからないが、隣に座っているのは伊藤先生だ。

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王宮や寺院の入り口には、必ずと言っていいほど怪物(キールティムカ)が鎮座している。

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この怪物が象徴するもののひとつが「時間」である。怪物のあごの下をくぐることは「時間」を超越した世界に足を踏み入れることを意味している。

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王宮の中ではガムランを聞いたり、王様の展示を見たりした。優雅この上ない、と思ったのは、大木の幹から日本では高価な胡蝶蘭が自生している姿だった。

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王宮内には、ひさしの下に20名ほどの男性がただ横一列に座っているのを見かけた。何をしているのかガイドさんにたずねたところ、歌を歌う順番を待っているのと、祈りをしているとのことだった。何もしていないように見えながら、祈りながら存在していることの価値がちゃんと認められている。

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王様は大きなのっぽの古時計をもっていた。息子にお歌を歌ってあげたらとても気に入っていた。

さて、あっと驚く王様のリッチぶり。遺跡の名前は忘れたが、プールサイドに楽団で音楽を奏でさせ、美女たちをプールに遊ばせ、ご自身は3階にある物見櫓の格子戸から「今夜はどの子にしようかな〜♬」と、選ぶ。選ばれた美女が、置き替えやお支度をする間、そして王様と二人で水浴びを楽しむプール、ベッドの下でお香を焚いてロマンチックな一晩を過ごす部屋、などが観光地になっている。

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一夫多妻制の社会に生まれなくてよかった・・・と思いながら、息子は私だけのもの、という占有欲が頭をもたげてしまった私。

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肌にいい香をたきしめるために、ベッドの下に香炉を置くのはいいアイデアだと思った。けど、我が家でやったら防災センサーが感知してしまうだろう。

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お昼ご飯は街のパダン料理へ。壁にはデヴィ夫人の写真が飾ってある。

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ご飯をお皿に載せ、自分の好きな物をのせていくスタイル。これでお値段なんと80円のお昼ご飯なり。

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スパイスはこんな石臼でミックスする。年季がはいっている。こちらのみかんはとても甘い。酸っぱいものが苦手な息子も夢中の生絞りジュース。

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午後は地元のお金持ちのお家をみせてもらう。
バリ島のウブドを思わせるような田園地帯を眺めるように、風通しの良い家が建っている。

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日本でも夏の間だけでもこんな家が成り立てばいいのに。冬はさすがに越せないかもしれないが。

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裏庭には東屋がある。本を読んだり瞑想をしたり。

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水草を守るかのように、動物の像が目を和ませてくれる。

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もちろん、使用人が働くスペースが備わっている。大豪邸では500人ほどを抱えるところもあるそうだ。

旅の終わりは、プランバナン遺跡へ。

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これは、シヴァ神をまつるれっきとしたヒンドゥー寺院なのだが、、、やはりてっぺんだけなぜか仏教の仏舎利がちょこんと乗っかっている。

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しかし守り神には象さんが。ヒンドゥーなのだ。

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天に向かってそびえ立つ塔は世界のあらゆるところに見られる。これは神と一体化したいという人々の想いだろうか。

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プランバナンにはかつては100を越す塔が存在したが、今はわずかしか残っていない。シンガポールのラッフルズホテルのオーナーであったラッフルズ氏が発掘の指揮をとったという。英語では「リハビリテーション」といっていた。山積みになった石を組み合わせて復元するのは気が遠くなるような作業だろう。

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実際、中心にあるシヴァ神をまつる塔はまだ修復途中で、見学者はヘルメットをかぶらなくてはならない。

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そびえ立つ6つの塔の3つは、ヒンドゥー教の「創造の神様」「破壊の神様」「守りの神様」をまつっている。この中でも最も重要視されているのが「破壊の神様」シヴァ神だ。そしてそれに対応するように、それぞれの神様の乗り物がある。創造の神様の乗り物は水に浮かぶガチョウだ。破壊の神様は土を耕す牛であり、守りの神様は空を舞うガルーダだ。インドネシアを代表する航空会社「ガルーダインドネシア航空」も空の守り神ガルーダにあやかってスカルノ大統領が命名されたという。

そしてこれらが意味するのは、人が暮らしていくには「水、土地、空(空気)」のいずれもが必要で、それらはひとつで独立しているわけではなく、それぞれが関連しあい支えあっているという姿である。現代に映し出された乗り物の姿、それは「船舶(海)鉄道、車(土地)飛行機(空)」だろうか。それらすべてが機能して、私たちの経済は発展してきた。
創造には水が必要だ。乾いた土地には作物はならない。人は、土地を根底から覆して耕し、そこに種を植える。

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ちょうど夕日の時間に訪れた。
この寺院がこんなに夕日を美しく映し出すようにつくられたのは、ただただ素晴らしいことだと思った。設計者に神が降りてきたのだろう。いやでも生まれた来た意味を考えたくなるような光景だ。

伊藤先生曰く、瞑想が難しいと感じる人が増え、手っ取り早くからだを動かすハタヨガのほうが主流になってきたのではないか。
ヨガをなんと定義するか。呼吸法なのか。瞑想法なのか。
メディカルヨガ、という分野の普及に取り組みながら私自身が思うこと。
現代社会の病みに「運動不足解消」という薬で解決できることはたくさんある。
呼吸法ですら自律神経の病には直接的に効果的だろう。
でも、現代をつらぬく心の病にはやはり最終的には「瞑想」や「マインドフルネス」が必要とされてくるのではないか。
マインドフルネスはリラクゼーションではない。リラクゼーションが人を無条件に癒すのではなく、人それぞれの「気づき」こそが、人間に「祈る前と祈りのあとの違い」をもたらすのではないかと思う。

先生はもっと詳しく教えてくれた。密教のなかで、「身体を用いる」ハタ・ヨーガが育まれたが、それは「身体を使う」ヨーガではなく、あくまでも動かすのは、意識とプラーナだ。意識とプラーナを使って、身体に全宇宙を描き出す、といったほうがいいかもしれない。全宇宙のモデルが寺院であり、曼荼羅となる。(だから曼荼羅には何ともいえない味わいがあるのだろう:宇宙そのものがミステリアス!)そのあたりが、古典的ヨーガと密教的ヨーガの違いなのだということだ。

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外国でヨガを学びながら、やはりよくたずねられるのが、アジアや日本における禅や仏教の立ち位置だ。恥ずかしながら自分の中でも、日本の仏教のことですら整理がついていなかった。西洋から見たら、アジアはみな同じだ。

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でもその解釈は間違っていないのかもしれないと今回の旅で思った。アジアには仏教の大きな流れがある。仏教の教えは基本的に優しく、人間の弱さに対する慈悲がある。一生懸命作ったものを破壊されたら悲しいじゃないか。だからわざわざ壊さなくてもいいよ。

「まあ、いいじゃないか」

これこそがアジアの徳であり、20世紀西洋社会が直面した「世界をコントロールできるという幻想、傲慢さ」への次の答えなのではないかと思う。

ガンジー氏も、アウサンスーチー氏も、暴力は何も残さないことを言っている。その背景にはアジア全体がもつ、否定しあわない大切さへの共通認識があるような気がする。

ちなみに私の理解では、仏教は、大きくアジアで3つの流れになった。ひとつは私たちも家族でたずねたブータンに向かっていった「チベット密教」もうひとつは唐を経由し日本までやってきた「真言密教」もうひとつはヒンドゥー教とからみあいながらジャワ経由でバリに届いたジャマン・ホド(仏の道)

今までは仏像を見てもそれが何を意味するのか正直ピンと来なかった。自分の中で何となく整理がついて、やっと、日本で花開いた仏教や禅の文化を掘り下げてみようという意欲がわいてきた。

今回の遺跡巡り自体も、私たち親子の途中参加を快く受け入れてくれ「まあ、だいじょうぶだから」と温かく見守ってくれた先生方のの一行に助けられた旅であった。反抗期の息子を頭ごなしにコントロールしようとし、行き詰まってばかりの自分の子育ての未熟さを、まるで鏡に映してもらったようだった。

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今度いつ来られるかわからないインドネシア。お別れのときがやってきた。
インドネシアの小京都、活気にあふれたジョグジャカルタの空港はいつもこのように人で埋め尽くされているのだろう。


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